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ウクライナ中部、東部略史

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Доброго вечора!

教祖です。
 

先日、ウクライナ西部略史を投稿したあとで、少々反省しました。

ウクライナ本体の歴史についての解説なしにやってしまって、ここを読んでおられる方々にはわかり辛い面があったと思います。

そういうわけで、今回はウクライナ本体の歴史について書いてみたいと思います。

ここは西部以上に複雑な流れてすので、できるだけ完結に一つの流れで説明できるように努力します。


キエフ(ウクライナ語ではキイウ)が現在ウクライナにあるという理由でウクライナ人はキエフルーシを自分達の遺産だと思う傾向がありますが、これは東スラヴ人全体の遺産と言うべきでしょう。

現在のウクライナの領域の形成の始まりは、キプチャク汗国が崩壊しその残党であるクリミアタタール、ノガイタタールがこの地域を荒らしていた15世紀に遡ります。

タタール人の攻撃・略奪によりこの地域は肥沃ながらほとんど無人の地と化していました。

そこに、ポーランド、リトアニアの農奴などが自由を求めて逃亡し定着します。地理的に言ってロシア方面からの流入もあったのでしょうが。

彼らは自衛のためタタールの生活様式と戦闘方法を学び、武装集団化し、逆にタタールの領域やその宗主国であるオスマン朝本国に対する略奪を行うようになります。

こうしたコサックと呼ばれる集団のウクライナにおける中心はザポロージエ(ウクライナ語名ザポリッジャ)にありました。

シーチと呼ばれたその本営は、ザポロージエ(急流の向こう)の意味の通りドニエプル川(ウクライナ語名ドニプロ川)の急流の中洲にあり、

希望者はそこを泳いで渡ってこない限り入団を認められなかったと言われます。

法律は簡素で厳格であり、ラーダと呼ばれる集会でヘチマン(首領)を選出しました。

この時代のもっとも知られたヘチマンはペトロ・サハイダチヌイで、彼はコサックを規律の取れた武装集団に変革し、ウクライナコサックの地位を高め、

また当時寒村と化していたキエフを再建し、キエフを文化・宗教(正教)の中心地として復興させます。

彼によってウクライナ地域のスラヴ人に一つのまとまりとしての意識が与えられたとの見かたもあります。



ウクライナコサックは当初ポーランドの影響下に入り、ポーランドの対トルコ政策に利用されてきました。

しかしウクライナコサックの間でポーランド支配に対する反感が次第に高まり、反乱が散発した後、新たにヘチマンとなったボフダン・フメリニツキーにより大規模な反乱が起こります(1648年)。

これはウクライナコサックとポーランドとの戦いを描いた動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=dKLkUyVJS2I

この反乱で当初は優勢であったウクライナコサックは一時は自治(ヘチマン国家と呼ばれる)を獲得しますが、やがて劣勢に転じ、フメリニツキーは周囲の諸国との同盟をあれこれ模索した末、ロシアの宗主下に入ることに成ります(ペレヤスラフ条約:1654年)。

これは、ウクライナの英雄の一人とされるフメリニツキーが後代非難される原因となったものです。

しかしフメリニツキーの意思に反してロシアはポーランドと和解し、ヘチマン国家はドニエプル川を境にロシアとポーランドに分割されることとなります。

ポーランド側ではヘチマン国家は早々に廃止され、18世紀には「ハイダマキ」と呼ばれる野盗による支配者に対する反乱じみた活動があったものの、鎮圧されます。

ロシア側では、エカチェリーナ2世の時代に廃止されるまで、次第に骨抜きにされながらも存続しします。

この時代、クリミア汗国がロシアに征服され、黒海北岸には「ノヴォロシア」県が成立します。

この時代のヘチマンで最も有名なのは、ピョートル大帝の側近でありながら大北方戦争にてスウェーデンに味方し、ポルタヴァの戦いで敗れて逃走先で死亡したイヴァン・マゼッパです。


18世紀末よりロシア領ウクライナでは「ウクライナ・ルネサンス」と呼ばれる民族復興の動きが始まります。

この運動はロシア帝国による厳しい弾圧にあい、中心人物の多くはハプスブルク領であったウクライナ西部に避難することになります。

この民族主義の流れは結局途絶えることなく、ロシアの革命時代を迎えます。


ロシアの1905年革命において、ウクライナでは労働者、農民による革命運動が活発化します。

1917年の2月革命が勃発すると、ウクライナの民族活動家達はキエフにて「中央ラーダ」を組織し、大幅な自治をモスクワに要求してモスクワの臨時政府と激しく対立します。

中央ラーダは臨時政府軍に対しボルシェヴィキと共闘して撃退しますが、のちボルシェヴィキ軍に敗れて西部に逃走。

しかし中央ラーダは独軍を引きつれキエフを奪還。

その後キエフはソヴィエト軍に奪われるも、1918年3月再び独墺軍の手に落ちます。

ウクライナとしては独墺頼みだったのですが、独墺軍はウクライナで厳しい食料調達を行い、ウクライナ農民達による激しい抵抗運動を引き起こします。

しかし独欧は中央ラーダを体よく破壊して親独墺のソコロパツキー政権を成立させます。

この行動により、ウクライナ全土で激しい反独墺・反ソコロパツキー政権の反乱が展開されます。


独墺が第一次大戦に敗北すると、キエフには中央ラーダ系のペトリューラら率いる政府が誕生します。

しかしロシア革命後の混乱期において、ウクライナでは政府軍、赤軍、ウランゲリ・デニキンの白軍、農民反乱の流れを組むネストル・マフノの黒軍(アナーキスト)らによる戦いが展開されました。

最終的に赤軍が勝利し、ウクライナはソヴィエト連邦に編入されることと成ります。


ソ連編入後、混乱と大規模な農場集団化、食料の強制挑発により1931年からウクライナでは大規模な飢饉が生じ、400万から600万の死者が出る惨事となりました。

その後の独ソ戦におけるOUN、UPAの戦いは、先のエントリで書いたとおりです。


ウクライナの戦いはその都度様々な要素がありますが、

一貫しているのは、常に必ず国際的に孤立していた中でいつの間にか消えていったということです。

今回は、どうでしょうか?


今日はこんなところでしょうか。

それでは、До побачення!



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